Saturday, October 27, 2007

End Of An Era-1

ヤンキースの12年(その1): 無能な成功者

成功という言葉を辞書で引いてみると、次のようなことが書いてある。1.物事がうまく進行して、よい結果が出ること。2.事業を成し遂げ、社会に相当の地位を占めること。この場合のよい結果とはあくまでも社会が対象であり、逆に当人だけの認識なら誰も成功とは呼ばない。つまり成功とは相対評価に過ぎず、本質とは別の領域にある。

朝は機嫌が悪いから喋りたくない。こんな我がままは許されても、結婚式に普段着でいけば常識がないと非難される。どちらのケースも本質的には同じなのに、なぜこうまで符号が違ってくるのか。そう、全ては多数決で決まるから。

ではその大多数の人の判断が正しいかと言えば、必ずしもそうとは言えない。社会に適応することが目的の保守思想が基軸になっている以上、むしろ間違っていることの方が多いと思う。

他国を侵略することが正義、黒人は家畜と同じ。いまどきこんな考えを持っている人はいないわけで、多数決などまったくアテにならない。確かに何かを成し遂げることは難しいから、それに対して一定の評価はしてもいい。ただし等倍の評価を与えるとなると話は別、ステレオタイプと言われても仕方がない。

ホームレスに堕落者の烙印を押すのではなく、少なくともその中の一部には然るべき理由があると考えるべき。重犯罪者の多くが幼少期の家庭環境に問題があるように、結果だけで判断すれば好転するものもしなくなる。

能書きが長くなったが、名将と言われるトーリにも同じことが言える。ヤンキースの監督に就任して以来12年連続プレーオフ進出、そのうちワールドシリーズは4度制覇。就任時期と成績を短絡的に結びつければ輝かしい功績ということになるが、それ以外の要素も多々あり事はそう単純ではない。

監督を評価する要素は主に3つある。1つ目は指揮官としての能力。これについては疑う余地がないほどレベルが低い。今まで散々書いてきたので省略するが、興味があればブログ内検索でもして読んでみて欲しい。相当数の記事がヒットすると思う。

2つ目はチームをまとめ上げる、文字通りのマネージャーとしての能力。先日も書いたがトーリシンパは生え抜きや主力選手に限られていて、立場上迎合している可能性は否定できない。実際トーリの去就が自身の動向に影響すると明言していたリベラは、辞任後に態度を一変させている。

関連記事:リベラ「トーリ退任はFAと関係ない」

またシェフィールドプロクター、その他の選手の言動を見てもまとまっていたとは到底思えない。さらに言えば選手は一生を懸けてプレーしているわけで、チーム内の問題はあくまでも二の次のはず。見えない部分も多いことから、これ以上の憶測は止めておく。

3つ目はチーム作りに関する能力。GMの仕事だと思われがちだが、実際は監督の意向も強く反映されている。投手力強化を主眼におきながら、結局は長打に魅了されてしまう野球観。右や左に拘った挙句、左の中継ぎがいない今季のプレーオフ。何の役にも立たない投手コーチなど、挙げればキリがない。

詳しくは後日触れるが、キャッシュマンを含めてこんなチームにしてしまった責任は限りなく大きい。このように、いずれの要素も名将と呼ぶには対極。個人的にはこの説明で十分だと思うが、成績が成績だけに納得しない人もいるだろう。そこで次回はその成績にスポットを当てて考えてみる。

2 comments:

Anonymous said...

kmfisさんに出会わなければ、
私も「大多数」の一部で終わっていて、
今頃トーリ擁護派になっていたでしょう。

松井との関係でどうしても贔屓していましたが、
これだけ列挙され、いままでの記事を読んでいくと、
頷かざるを得ませんね。

でもオーナー、GMが変わらない、っていうことで
監督が変わっただけで実際どうなるのか。

不安は尽きませんね。。。

KMFIS said...

確かに異常なぐらい列挙してますね。
真実という意味では分かりませんが、
そう言ってもらうと書いてきた甲斐があります。

実際ぐだぐだ書かなくても、
あの目が全てを物語っているんですけどね。

近いうちに記事にする予定ですが、
キャッシュマンもある意味同罪です。
采配もマッティングリーなら同じでしょう。
何と言ってもトーリ直系ですから。




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