Tuesday, November 04, 2008

Cogito Ergo Sum

我思う、ゆえに我あり

この記事を読んで思い出したことがある。大昔に読んだ1冊の本。物質(実存)に対する精神的な影響力について書かれたもので、著者は確か物理学者だった。はっきりと覚えているのは、飛行機事故のグラフとパイロットの話。当時は子供だったこともあって鵜呑みにしたが、そこから学んだ哲学は今でもしっかりと刻み込まれている。

「恐るるもの来たるの法則」

飛行機事故がある時期に多発するのは、単なる偶然とは考えにくい。何らかの因果関係があるはずで、それは(最初の事故による)人々の恐怖感が形となって表れたもの。これだと収束する説明がつかないのだが、事が起こることでエネルギーは転化されるので効力は下がっていくとのこと。同じ理屈で、嫌な夢はむしろ見た方がいいらしい。

「パイロットになった人はなりたかった人」

なろうとすればなれるわけではないが、なろうとしなければ絶対になれない。過程は意志の延長線上に存在するものとはいえ、単純に実現性と直結させれば真理ではある。著者自身も拡大解釈は認めていたが、意識が形に表れる例としては悪くない。

「神はサイコロを振らない」の意味について - Yahoo!知恵袋

物理学者がこんな本を書いたのは、量子論における確率解釈が背景にある。量子の世界では物(量子)の実体を確率的にしか定義できないとされているが、確率はどうであれ観測は可能。シュレーディンガーの猫のように、半々の状態ということはない。

事が起こる時の確率に影響するもの。アインシュタインの変数に当たる部分をこの著者は人の持つ意識と定義した。もちろん仮説に過ぎないが、エヴェレットの多世界解釈的な視点に立てばそうとっぴな発想ではない。以下はWikipediaにある一節。

「宇宙とは客観的には可能性(平行世界)の重ね合わせ状態であり世界が分岐するのは主観的な話である。例えばシュレディンガー猫を観測している人を一段大きな箱に閉じ込めてしまえば、外部の人の立場からすると、中の人が観測しようがしまいが、相変わらず中の状態は不確定(重ね合わせ)であり、収束も分岐も起きていないことになる」

多世界解釈が常識的でないのは、極論すれば人の持つ意識の集合体が実存であるという考え方に帰結する。仮に死んでいる猫を生きていると認識する人がいても、医学的に異常として排除されるだけで実存には影響しない。逆に大多数の人が狂ってしまえば、死んでいる猫も生き返る。

つまり意識次第で見かけ上の世界はどうにでもなるわけで、人の持つ意識がカギを握っている可能性はある。デカルトも提唱しているように、この世で唯一無二の存在は自身の意識。取り巻く世界がどうなっていようと、これだけは変わらない。頼りにするのも信じるのも自分。これがその本から学んだことだ。

「サイコロは自分で振れる」

角度を計算して6の目を出す人もいれば、計算するのが面倒で3しか出せない人もいる。重要なのは、自分自身の努力で6に近づけられること。そして意図せずとも6を出す人がいることだろう。

Playlist Updated:
Andy TubmanのGuilty. 本来は君なしではという意味なのだが、Life is son of a bitch(人生はクソ)の部分が妙に心に響く。

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関連記事:Dead Set

参考サイト:コペンハーゲン解釈と実存解釈

2 comments:

ゴジラ said...

こんにちは。まさかこのブログでシュティレンガーの猫の話題が出るとは思いませんでした。ヤンクスの今年の総括、楽しみにしてます(気は進まないと思いますが。)

KMFIS said...

こんにちは。

まとめる自信がないので頭が痛いですが、
総括は一応書くつもりです。
ゴジラさんの言ってきたキャッシュマンも残留。
どうやらチーム本体に問題があるようです。

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