Friday, March 16, 2007

Reaction-2

偶然にも残りの2本はヴェンダース

Chambre 666 (666号室)
監督ヴィム・ヴェンダース 1982年 フランス

カンヌ映画祭に出席した監督たちが、映画の未来とテレビとの関係について語った短編。まず最初に感じたのは、このテーマ自体が愚問だということ。確かに時代を考慮すれば、ビデオの台頭が相対的な脅威になっていたのは事実。

ただしそれとテレビは本質的に無関係、単にメディアとしてビデオを使っていたに過ぎない。フィルムとビデオの関係について語るならまだしも、そうでなければ少なくとも10年前にするべき話である。

百歩譲ってテレビの存在が映画界にとって脅威だとしても、それで何かが揺らぐようならその時点で映画など撮る資格はない。そんな監督ばかりなら滅ぶのも必然、困るのは彼ら自身である。レベルの低いテーマではあるが、そこから派生した生の声には見るべきものがあった。特に印象に残ったのは、マルーン・バグダディのコメント。

「映画というのは、自分自身の人生と深く重なっている部分がある」

仮にほとんどの記憶を失ったとすれば、どんな映画も空虚に感じるはず。なぜならそのストーリーや主人公にに自己を投影できず、感情移入もできないからである。映画と自己を対比させることで何かを感じ、そこから何かを学ぶ。それが映画であり、そこにこそ存在意義がある。映画とはそういうものだと思う。

「自分の映画を撮ることは、どれだけ人生経験を積んだか自問することでもある」

人生経験によって、どれだけ伝える価値のあることを学んだかという意味。これは人間にとっての生きる意味と言えなくもない。喜びの大きさをどれだけ噛みしめられるか、悲しみの大きさをどれだけ実感できるか。全ては記憶を重ねればこそ分かること。好きな曲のタイトルにOld And Wiseというのがあるが、この場合最も相応しい言葉だと思う。

残念だったのは、全ての監督が芸術としての映画を否定しなかったこと。断言してもいいが、映画は芸術ではない。一部の映画が芸術に属するというだけである。そもそも芸術というのは、対価を求めない自己表現なはず。対価が前提の映画に当てはめるのは、根本的に間違っている。

一歩引いたスタンスがなければ、それこそ芸術のための芸術になってしまう。ロックスターをいくらきどったところで、真のロックスターにはなれないのである。いずれにしてもヴェンダースからコマという映画だった。

Land Of Plenty (ランドオブプレンティ)
監督ヴィム・ヴェンダース 2004年 アメリカ/ドイツ

アメリカの誤った方向性だけをクローズアップし、それぞれのキャラクターに代弁させているだけの映画。本人は問題提起しているつもりだろうが、この程度なら中学生にもできる。本編中のセリフにもあるように、確かにテロの被害者は報復を喜ばないだろう。ただそれだけの理由で片付けられるほど、問題は単純ではない。

あまり軽はずみに書いてしまうと誤解を招くので、これについては日を改めてきちんと書きたいと思う。それにしてもヴェンダースの映画は無駄に長い。パリテキサスは好きな映画だが、ここまで酷いともう一度観る必要がありそうだ。ミッシェル・ウイリアムズの演技だけが唯一の救いだった。

追記:調べてみると前述のマルーン・バグダディは、43歳の若さで事故死していた。好意を持つ人はなぜか短命、今降っている雪には意味があるのかも知れない。

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