Thursday, March 22, 2007

Plan A

いつものようにコーヒーを飲みながらパソコンに向かう。

天気があまりよくないせいか、やはり今日も書く気になれない。適当にやり過ごしてみたが、あまり効果はなかった。溜めておくのも苦痛なので、書いてみることにする。

事実誤認と米報道に反論 安倍首相発言で加藤大使
いったい何年たったら、従軍慰安婦問題や...日本は開放されるのだろう。

この問題を考える時、核になっているのは実際に従軍慰安婦が存在したかどうか。結果如何で全ての状況が変わってくるだけに、まずここにスポットを当てる必要がある。

否定派も肯定派も主張する上で好都合な文献や資料漁りに精を出し、それらを元に鬼の首を取ったかの如くの主張が繰り返されている。仮にその一部始終が収められた映像が見つかったとしても、おそらく収拾はつかないだろう。つまりこんなことをいくら繰り返していても何の意味もない。テレビタックル並みの議論が延々と続くだけである。

現代社会において、他国を侵略することは認められていない。アメリカがイラクを攻撃した理由、またそれが非難される理由の一端はそこにある。侵略とは身勝手な都合で他国や他人の生活を脅かす行為なのだから、認められないのも当然である。

ただし問題となっている時代においては侵略は正義、少なくとも正当化されていたのは事実。そんな倫理観がまかり通っていた狂気の時代に、従軍慰安婦がいなかったとするのは果たして自然な考え方だろうか。他人の生活や命は奪えてもそれだけは例外、全世界中で同様のことがあろうとも日本人は違う。これ以上おかしな話はない。旧日本軍の関与の問題だと思うかも知れないが、同じことである。

これほど不自然な状況を、客観的事実がないという理由で否定する日本人。最も象徴的な発言が、この記事のコメント欄にある。

「実は強制連行を裏付ける物的証拠が何一つ無いのをご存知ですか?」

この人は何をどれだけ知っているというのだろう。そもそもないと証明することは、あると証明するよりはるかに難しい。難しいというより、厳密に言えば不可能である。なぜならないと証明するためには、全てを観測する必要があるからだ。

客観的事実と高らかに言ったところで、それには知る限りではという前提が常に付いてまわる。そんな前提付きの事柄を、それほどまでに主張できるとはまったく呆れる。彼らの言う客観的な事実(これ自体怪しいが)しか根拠にできないことこそ、客観性に欠けるのが分からないようだ。

コメント欄を見れば分かるように、こういう考え方を持つ人は少なくない。彼らの根底には何があるのか。おそらくそれは自己正当化だろう。先祖や祖国を美化することで、間接的に自己の存在を確立したい。もしくは相対的な付加価値による優越感。気持ちは分からなくもないが、汚名という言葉を隠れ蓑にしないでもらいたい。

百歩譲って汚名を晴らしたいという気持ちに偽りがないとしても、その汚名を生み出した元凶は戦争にある。言ってみれば狂気の時代の副産物であり、あるだのないだの言わずに戦争自体に矛先を向けるべき。まさかそれすら日本に責任がないとは言わないだろう。

思いたいことと思うことは本質的に違う。祖国を愛する気持ちに価値はあっても、盲目的に愛する気持ちに価値はない。意地悪な言い方になるが、一見愛国心の塊のような彼らを求めているのは一部の日本人に過ぎない。たとえそれが現在の日本を支配しているとしても、今後の日本を支えることはできないはずだ。求められるのは先入観に依存しない正確な判断力と向上心。国益を主張する彼らが国益にならないのは皮肉な構図である。

数学に不定という解があるように、全てに歴然とした答があるわけではない。この場合に限って言えば真実は確実に存在するものの、それを証明する術がない以上答えは永遠に闇の中。ただ考え方という意味において、この不自然な状況を度外視した否定派の意見には反対する。

首相の発言や外交については考えるだけ無駄に思えるので、宮崎学の言葉を引用して終わりにしたい。アメリカの対応、靖国問題についても同様である。

「政治家は財界の犬」

伝えたいことをきちんと書けたかどうか分からないが、とりあえずここで止めることにする。反論は大歓迎なので、何かあればコメントを残して欲しい。ただし同じことを繰り返すような主旨のコメントは削除する。

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